ほろ酔い陽子ちゃん(覚醒編)

 未だ熱を孕みつつも、どこかその中に秋の兆しを感じさせる夜の空気。
 その夜を切り裂くようにして、一陣の疾風が駆ける。
 人に仇成すモノを狩る、美しき鬼の姫が。

 それは、市内の外れに位置する橋で、不審な交通事故が多発したことが切っ掛けであった。
 バイクや自動車が、橋を渡る際に突然走行が不安定となり、ガードレールや橋桁を破って川に落下したり、 歩道に乗り上げたり、転倒したりといった事故が多発しだしたのである。
 そして、その事故を起こした人たちのほぼ全てに共通していたのは、事故後、飲酒運転をしていたと判断さ れた、ということである。ただし、当人たちは、一人残らず飲酒の事実は断固として否定していた。にもかかわ らず、事故後の検査において、血液中からは高い濃度のアルコールが常に検出され続けていたのだ。中に は、ほとんど急性アルコール中毒の症状を呈していた者すらいたのであった。
 その身の裡に鬼の血を引き、その力をもって妖を狩る少女、神無木陽子の母親であり、神無木神社の禰宜 である紅葉さんが、その裏に妖の存在を察知するのには、さほどの時間は必要としなかった。
 俺も、別の方面よりこの事故に注目して独自の調査を進め、その結果として紅葉さんと同じように妖の存在 を突き止めていた。また、事件の発生においてあるパターンが見られることに着目し、一度ならず次の事件の 発生を予測してみせたのも俺だった。
 まあ、そのような経緯で、あまり俺が陽子たちの言うところの「狩り」に関わり合うことを好まない陽子も、 渋々ながらではあるが、俺がこの現場で行動を共にすることを承知したのだった。
 まあ、それも、あくまでも普通の人間でしかなく、妖と戦う力など持ち合わせてはいない俺のことを心配してく れているからだ、ってのは理解しているつもりではある。だが、心配というのならば、それは俺の方とて同じこ となのだ。大切な女の子が、危険の中へと自ら飛び込んでゆくのを傍観していられる程、俺は図太い神経は 持ち合わせてはいないのだ。
 それでも、今も数多くの「狩り」を、俺に報せることなく陽子が行っているのであろうことは、容易に想像できる ことではある。実際のところ、やはりもどかしい思いは禁じ得ない。
 だが、ともかく、少なくとも今回の事件では、こうして俺は陽子と行動を共にすることが出来たのだった。

「来たぞ、陽子」
 物陰から目の前を通り過ぎてゆく車を見送る俺たち。陽子は既に鬼の力を覚醒させ、敵の出現に備えてい る。飯綱もまた、陽子の肩で息を潜めている。
 車のテールランプが点滅し、これから橋を渡ろうとしていることを告げていた。
 さっきから、空気の中に酒臭い匂いが僅かに混じっている。ただし、普通の人ならば、たとえ鼻が利く方であ ってもこの匂いは感じ取れまい。これは物理的な匂いではない。霊的な知覚が嗅覚に働きかけて「酒臭い匂 い」として認識されているだけであり、実際の臭気とは異なるものだ。しかし、これが更に濃くなれば、普通の 人にも感じ取れるようになるだろう。そして、それがあの妖の実体化の時になるはずだ。
 そして、目の前を通過していった車が右折し、橋に差しかかったその時だった。
「どうやら敵が現れたようやで、陽子」
「ああ、そうみたいやな、飯綱」
 橋のたもとで急激に妖気が凝縮してゆくのが俺にも感じ取れた。それは、見る間にうすぼんやりとした人の 形をとってゆき、角を曲がるためにスピードを落とした車の運転席の方へと近寄ってゆく。そうしている間に も、そいつは次第にその姿をくっきりとさせてゆく。それは、赤ら顔をした老人の姿をしていた。如何にも酒飲 み、といった風情の姿である。そいつは、すい、とすべるように移動してゆき、車の窓ガラスをすり抜けるよう にして顔を運転席へ突っ込むと、それに全然気付かないドライバーの顔にふうっ、と息を吹きかける。
 それは、俺たちが奴の気配を感じ取ってから、ほんの数秒間の僅かな間の出来事だった。
 端から見ている俺たちにさえはっきりと判るほどに、見る間にドライバーは酩酊状態となってゆき、蛇行運転 を始めた車は、その橋を渡りきる間も無く、左手側の欄干にに衝突し、そこで止まった。無論、俺たちだってた だ眺めていた訳ではない。急いで駆け寄ってゆく俺の目に、運転席で突っ伏しているドライバーの姿が飛び込 んできた。
 それを確認した俺は、急いで携帯電話から一一九番で救急車を呼ぶ。
 妖は、前部がひしゃげた車にゆっくりと近寄ってゆき、にやり、と口の端をつり上げる。空虚でありながら、邪 悪に満ちた笑みだった。そして、衝突で歪んだボンネットと半壊した欄干を確認するや、妖気を拡散させ始 め、その場から消えようとする。だが……
「逃がさへん!!」
 奴に消える隙を与えずに、陽子が背後から後頭部に膝を叩き込む。転がるように前方へと倒れる妖。
 しかし、妖はまるで堪えていない風に立ち上がり、陽子の方へと向き直った。奴は、相手が女の子だと知っ て、いかにも好色そうに舌なめずりをした。それに対して陽子の横顔が嫌悪感に歪むのがこちらからも見て取 れる。
「おっと、相手はこっちにもおるで」
 すかさず、妖を挟み撃ちにする体勢で、飯綱が奴の背後へ回り込む。
 奴がその声に思わず振り向いた隙を突き、陽子が一気に間合いを詰め、奴の背を貫くように必殺の爪を振 るった。
「もらったで!!」
 陽子の爪は、呆気ないほどに易々と奴の心臓の位置を貫いていた。だが、決まったか、と思ったその刹那、 ぐるん、と奴の首が一八〇度回転し、にたり、と笑い陽子の顔にあの息を吹き付けた。
「ふぁああっ!?」
「陽子!?」
 咄嗟に顔を覆い飛び退くように奴から離れる陽子。だが、突然のことに離れたときに足をもつれさせ、転ん でしまう。
 俺は、奴を警戒しながらも、急いで陽子に駆け寄る。
 だが、警戒するまでもなく、奴の身体は急激に崩壊を始め、見る間にアルコール臭を帯びた土くれと化して いた。さっきのは、言葉は悪いが「鼬の最期っ屁」みたいなものだったのだろう。だが、それだけに、まともに 喰らってしまった陽子が心配だ。
 俺は、地面に両手をついて俯いているままの陽子に駆け寄り、肩に手をかけて名前を呼んだ。
「陽子、大丈夫か、陽子!?」
「全く、油断し過ぎや!! しっかりせえ、陽子!!」
 飯綱も陽子の傍らへ飛んでくる。
 陽子は少しの間俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げ、俺たちの方を見た。
「ほへ?」
 ぽーっとしたような、とろんとしたような目で。頬を紅潮させ、僅かに息を弾ませて。
 そう、お察しの通りである。陽子は明らかに奴の酒気に当てられ、ほろ酔い状態になっていたのであった。
 陽子は、倒れたときの崩れた姿勢をゆっくりと直し、ぺたん、と路面に座り込むような体勢で俺の方をじー っ、と見つめながら言った。
「どないして……」
「どうした、大丈夫か、陽子?」
「どないして、二人になってるんや?」
「へ?」
「おい……」
「飯綱まで……さんびきになってるやん」
 ……大丈夫じゃないみたいだった。
「ワシは『匹』で数えられるんかい」
 いや突っ込み所そこじゃないし。まあ飯綱としては『匹』扱いはあまり気に入らないのだろーが。
「あーあ、すっかり出来上がっちゃって……」
 そのとき、俺の脳裏にあの夏休み最後の日のことがよぎったのは無理からぬことであっただろう。陽子がお 酒に弱いのは、あの件で既に証明済みといっても差し支えあるまい。しかも、今夜は覚醒した状態で酔っぱら ってしまっているのだ。果たして、どーゆーことになってしまうやら……

 ともかく、俺はまだ地面にぺたんこ座りしている陽子の側にしゃがみ込んで表情を伺う。
「大丈夫か、陽子。 ……立てるか?」
 そう声をかけるが、陽子はまだぽーっとしたままやや焦点のぼやけた瞳でこっちを見つめている。
「……」
「もしかして、酔ってる?」
「……酔ってへんよ」
「だったら、立てるかな、手、貸そうか?」
 そう言って、俺は陽子に右手を差し伸べる。陽子はその手をしばらく見つめていたが、やがて俺の手をそっ と取った。それを確認し、立ち上がった俺はくい、と手を引いて立ち上がらせようとする。
「……陽子?」
「…………なんや?」
「ほら、立たないと」
「立てへん」
 全然足に力入れてないように見えるんだがなあ。
「立てへんって、立とうとしてないだろ」
「立てへんの」
 俺の言葉に、ちょっとふくれた顔でそう言い返す。
「立てへんの」
 あ、なんだか甘え入ってる。
「全く、お前が油断しとるから、敵の攻撃まともに喰らってまうんやろが。ちょっとは反省せえ」
 そんな陽子の様子に呆れた飯綱がそう言ってたしなめる。が、
「飯綱、うるさいー」
 そう言って飯綱を上から掌でべちべちと押さえつけようとする。
「わっ、コラ、陽子、よさんかい」
 飯綱はそれを避けながら陽子の周りを駆け回り、やがて俺の足もとまで逃げてきた。
「やれやれ……」
 陽子は腰から下を動かす気配も見せず、上半身だけぶんぶん振り回している。
「逃げるな、飯綱ー」
「やかましいわい!」
「けど、立たないと帰れないぞ、陽子」
 俺はもう一度陽子に手を差し伸べながら言った。
 が、陽子は、少しの間考え込んだ挙げ句、こんなコトを言ってくれやがりました。
「おんぶ」
「…………へ?」
「私、立てへん。せやから、おんぶ」
「おんぶって……」
 俺がためらっていると、なんだか見る見る陽子の顔が不機嫌になってくる。
「おんぶー」
「……諦めや」
 助け船を求めて飯綱に顔を向けるが、飯綱も諦め顔でその一言であっちを向いてしまった。
「……はあ、仕方ないな、ほら」
 このままでは埒があかないので、仕方なく俺は陽子に背を向けて腰を屈めた。すると、早速さっきまで全然 動かそうともしなかった腰を上げ、俺の背中に乗っかってくる陽子。やれやれ。
「しっかり掴まってるんだぞ」
「……うん」
 そう声をかけ、陽子の両足を抱えて立ち上がる。陽子の身体は小さくて、とても軽かった。こんな小さな身体 で妖と戦ってるんだな、と考えると、たまにはこんな風に甘えさせてやってもいいかな、とも思ってしまう。
 しかし、問題は他にあった。
 むにゅ。
 そうだった。陽子の身体を背負う、ってことは……もろに俺の背中に陽子の胸が押し当てられる、ってことで ……それも、陽子はぎゅっ、と俺の首に両腕を廻してしがみついている訳だから、触れている、なんてレベル ではなく、思いっきり押しつけられている訳であり……
「よ、よし、それじゃ、帰ろうか、陽子」
「ん……」
「……どないしてそないに前屈みなんや?」
 俺の妙に前屈みな体勢を見た飯綱がそう尋ねてくるが……
「ほっといてくれ」
 全く、男の事情くらい察してくれ。っつーかわざとかも知れんがな。コノヤロ。
 とか言いつつ、背中にさっき呼んだ救急車のサイレンの音を聞きながら、神無木神社への道を陽子を背負 って歩いてゆく。一歩一歩歩くごとに陽子の身体が微妙に揺さぶられ、当然の結果として、押しつけられたふ たつのふくらみもまた背中で微妙にその形を変え、柔らかで弾力のある感触を伝えてくる。
 しかし、当の陽子はというと、五分も歩いた頃には、背中から規則正しい寝息が伝わって来ていたのだっ た。大方、歩くリズムがちょっとした揺りかごのような感じにでもなっているのだろう。
 ……まあ、いいか。
 ともかく、邪念を抑えることが第一だ。ううう、変なコト考えるんじゃねーぞ、俺……

 かくして、天国のような地獄を味わいながら神無木神社へとたどり着いた俺。鍵は預かっているので、その まま陽子の部屋まで行き、ベッドに陽子の身体を横たえる。
「ん……」
「お、目ぇ覚めたみたいやな」
 優しく下ろしたつもりだったが、どうやら衝撃で目を覚ましてしまったようだ。どうにもこうにも陽子の胸の感触 がまだ背中に残っている。必死で平常心を保っていたが、それもほとんど崩壊寸前だ。そのせいで、下ろした ときに隠した動揺がつい出てしまったのだろう。
「ここ、どこや……?」
 まだ陽子の紅い瞳は焦点が合っていない。声も気怠げで、眠気だけでなく、まだ酔いも残っている様子だ。
「ああ、陽子の部屋だよ。今帰ってきたとこだ」
 俺は陽子にそう答えを返した。
「連れてきて……くれたんか?」
「あ、ああ、まあな」
 陽子の少し細められた目が僅かに潤んでいる。その紅玉のような瞳は真っ直ぐに俺の顔を映していた。心 臓が大きく拍を打つのが感じられる。そういえば、覚醒した陽子とこんな風に見つめ合うことはあまり無かった ように思う。夏に海へ行ったときの件では、一刻を争う状況だっただけに、こんな時間を忘れるような気持ちに はなかなかなれなかった。
「そ、そないに……見んといて」
 僅かに目を伏せながら陽子が言った。つい見つめ過ぎてしまったようだ。
「あ、ああ、ごめん」
 慌てて視線を逸らし、宙を泳がせる。が、
「……どないして、目ぇ逸らすん?」
 と、寂しそうな目で問いかけてくる。
「おいおい、陽子?」
 そう返事をしてまた陽子を見るが、
「あぅ、見られるん、恥ずかしいで……」
 と恥じらいながら横を向く。
 いや、俺にどうしろと。
「しっかりせえ、言うとること無茶苦茶やで」
 飯綱も呆れている。
「うー、けど、けど……」
 上手く言葉が出ないようだ。なんだか、すっかり子供に返ってるみたいだ。普段の鬼陽子のクールさは何処 へ行ったのやら。

「……暑い」
 そんなやりとりの中、陽子がぽつり、と呟いた。
「ああ、酒気にやられたせいだな。窓開けるか」
 そう言いながら窓を開ける。秋口だけに、夜になると心地よい涼風が窓から部屋にすべり込んでくる。陽子 を背負ってここまで歩いてきた俺も、汗ばんだ肌を撫でる風の涼しさを存分に堪能する。
「どや、少しは涼しゅうなったか」
 飯綱も気遣うように陽子に話しかける。
「うん……けど、まだ暑い」
「仕方ないな。上着だけでも脱ぐか?」
 今夜の陽子はいつもの制服姿だった。白いブラウスに赤いリボンとスカート、クリーム色のベストのお馴染み 四点セットだ。
「うん」
 俺の言葉に、そう素直に頷く。だが、しばらくしても全然動こうとする気配がない。
「どうした? あ、ああ、そうだ、俺は向こう向いてるから」
 俺が見てるせいか、と思ってそう言いながら後ろを向く。しかし……
「ぬがして」
 どがしゃん。
 思わず椅子に足を引っかけて転倒する。
「…………は?」
 一瞬、自分の耳がどうかしたのかと思い、起きあがりながら間の抜けた声で問い返す。
「脱がして」
 今度は、もう少しはっきりとした声でそう言ってくれやがりましたこの娘は。なんだか、少し目が据わってきた ような。
「お前なー、いくら何やかて酔っぱらい過ぎや、正気に返らんかい」
 流石に呆れ果てた声で飯綱が窘めようとする。
「飯綱には言うてへんー」
「うわー!!」
 そう言うなり、ひょいと飯綱の体をひっ掴むや、窓の外へといきなり放り投げた。
「うゎ、おいおい、大丈夫か、飯綱?」
 慌てて窓枠から外を見る。
「うう、あんまりな仕打ちや……」
 彼は、漢泣きに泣いていた。
「陽子、これはあんまりなんじゃないか?」
 振り返ってそう陽子に言うが、
「だって、飯綱、やらしい」
「やらしいって……」
「飯綱いたら、脱げへんもん……」
 恥ずかしそうにそう言う陽子。
「何言うとんのや、いつも家の中じゃ平気でパンツ一丁で歩き回っとるくせにぶべば」
「何年前の話や!!」
 そう言いながら窓枠から身を乗り出した飯綱に剛速球ならぬ剛速枕が直撃した。ベッドの上では、酔い以上 に恥ずかしさで顔を赤くしながら陽子が、枕を投擲した姿勢で叫んでいた。
 飯綱は、スローモーションでも見ているかのように、ゆっくりした動きで、窓枠から外へと転がり落ちてゆくの であった。あーあ。
「あぅ、えっと……パンツ一枚でなんて、嘘やからね、その……そ、そう、ちっちゃい頃だけや!!」
 思い切りうろたえまくりながら、真っ赤になって陽子は俺にそう言っていた。まあ、パンツ一枚はともかく、陽 子が家の中では割と……というか、相当にラフな格好でいるらしいってのは飯綱や千早ちゃんに聞いてはい るのだが。流石に俺が来るときにはもう少しマシな格好をしているようだが。
「あ……うん、わかった」
 俺には他にどんな答えが返せるだろうか。いやもう。
「せやから……脱がして」
 ちょっと待て。話が繋がってないぞ。
「脱がしてくれへんと、脱がへんから」
 なんだか、意地になってないか?
 俺がそう言うと、
「意地になんて、なってへんもん」
 頬をふくらませてそう言い返してくる。
 流石に俺も根負けして、
「わかった……わかった。うん、う、うゎ、上着だけなんだからな、うん」
 そう答えたが……いかん、声が上擦った。

「い、いいな、陽子」
 落ち着け……落ち着け。あくまで、上着だけだ、上着だけなんだからな……
「う、うん」
 うう、なんだか、陽子の反応も変、というか意識し過ぎか俺?
 ともかく、まず胸元のリボンをそっと解いてやる、するっ、と衣擦れの音がして解けるリボン。
 続いて、クリーム色のベストの裾をつまみ、ゆっくりと持ち上げてゆく。
「陽子、バンザイして、ばんざい」
「うん」
 俺の言葉に応え、両腕を万歳の形に持ち上げる陽子。
 だが、ベストの裾が胸のあたりまで持ち上がった時だ。
「あれ、なんか、引っかかって……?」
 この、この、と引き上げようとするが、どうも上手くいかない。自分のしようとしていることに対する動揺のせ いで、ますます慌ててしまう。
「……ぁ……」
 陽子の上げた僅かな声。そこで我に返り、原因に思い当たる。つまり……ベストの裾が、陽子の胸に引っか かっていたのだった。
「ぅわわっ、ご、ごめん、陽子」
 慌てて持ち上げた手が、ベストを裏返しにして首を抜かないまま裾を頭の上まで持ち上げてしまう。すぐに首 のところを抜いて、何とか脱がしてあげることには成功したものの、少し陽子の髪を乱してしまう。
「……もう、ブラ、ずれてまうやんか……」
 そう小声で呟きながら、顔を赤くして胸のところをしきりに気にする陽子。
 ……あれ?
 少しだけ違和感を感じるが、続いての爆弾発言にそんなものは跡形もなく吹き飛んでしまう。
「首のとこ、ボタン、外して……」
「ちょ……おいおいおい!!」
「外してくれへんと、苦しいやんか」
 なんだか、覚醒しているせいか妙に迫力が。
「わかったよ」
 一つ二つなら問題無いか……無いよな、無いよな!?
 必死でそう自分に言い聞かせる。
 そうして、俺は陽子のブラウスの首のところのボタンに手をかける。まあ、第一ボタンがかかってると確かに 少し苦しいか。
 しかし、僅かに乱れ気味になった髪、解けて襟元から下がったリボン、ブラウスの純白の生地からかすかに 透けるブラ……あうう、刺激的過ぎる……指が震える。俺は、不器用な手つきでボタンを外す。
「も、もういいだろ」
 と言うが、陽子の方は、
「暑いから……もう一つ……」
 なんて言ってくれやがる。
 仕方なく……本当にだぞ、仕方なくもう一つ下のボタンを外してやる。二つのボタンを外されたブラウスの胸 元から、年齢に似合わぬ胸のふくらみと、その谷間が僅かに覗く。だが、僅かだからこそ、ある意味、俺にとっ ては余計に刺激的だった。理性では見てはいけない、と思っているのに、実際の視線はどうしてもちらり、ちら りと胸元へと行ってしまう。その度に慌てて視線を逸らすのだが。
「もう一つ……外して」
 だが、陽子は俺のそのような懊悩を知ってか知らずか、またもやそんなことを口にする。
「お、おい、陽子?」
「お願いや、外し……て」
 そう言う陽子の言葉に、俺はやむなくボタンに指をかける。気付くと、陽子の顔は、恥ずかしさを必死で堪え ているように顰められ、肩も緊張でかすかに震えていた。
 ……どうも、酔った勢いや、暑さのせいで言っているような感じではない。
 ふと気付いた俺は、陽子に訊いてみた。
「陽子……ひょっとして、酔い、覚めてないか?」
 俺のその言葉を聞いた陽子は、一瞬硬直したようにびくり、とし、みるみるうちに顔を紅潮させてゆく。どうや ら、図星だったらしい。
「あ……私……ちが……」
 陽子の顔が、ますます紅潮し、ふるふると首を横に振りながら泣きそうな表情になってくる。これはまずい。
 しかし、俺の予想に反して、陽子は、泣き出したりはしなかった。
「……え、あれ、お兄ちゃん……?」
 瞬きする間に、覚醒した陽子の紅い瞳が、普段の茶色に変わっていたのだった。だが、事態は余計悪くなっ た気がする。第一、俺の指はまだ陽子の胸元のボタンにかかっていて……
 それに気付いた陽子の深い茶色の瞳が、大きく見開かれた。

 次の瞬間、俺の頬が甲高い音を立てていた。

「ご……ごめんね、お兄ちゃん」
 陽子が、右手の形に赤くなった俺の左頬を気遣ってくれる。無論、既に普段の陽子に戻っている。付け加え るなら、ブラウスのボタンも第一ボタン以外ちゃんと留めている。
「うん、いや、大丈夫」
 微妙に力の抜けた笑いを落としながら、俺は曖昧な返事をする。どうにもこうにも、今一状況が読めない。陽 子の覚醒は、あくまでも彼女の意思のもとで引き起こされるものだった筈。当然、戻るときも同様だったと思 う。
 多分、急に性格の切り替わった陽子が、自分の置かれた状況に混乱したせいで、俺はこんな風に引っぱた かれるような目に遭ったのだろう、ってくらいは想像が付くのだが、判らないのはその切り替わった訳だ。
「……あのね、お兄ちゃん」
 陽子が恥ずかしそうな……加えて少し戸惑ったような顔で話しかけてきた。
「多分、あのとき鬼の私、逃げたんやと思う」
「逃げた……って?」
 思わぬ陽子の言葉に問い返す。
「うん。私、覚醒したかて、別人になるわけやあらへんから、ちゃんとそのときのことも、何考えてたんかも覚え てる。けど、その筋道とかが今の……普段の私と違うから、戻ったときそれ思い出すとちょっと戸惑ってまうこ とが多いんや。覚醒したときの私って……その、ちょっと、大胆すぎるみたいやし」
 さっきのことを思い出したのか、顔を赤くしながら陽子が言う。それを聞いて俺は、覚醒状態から戻った陽子 がしばしば見せるあの恥ずかしそうな、あるいは困ったような表情の理由が判ったような気がした。
「あ、あんね、さっきの私、多分、お兄ちゃんのこと、さ……誘ってたみたいなんや。途中までは酔ってたせい なんは確かなんやけど」
 ますます赤面しながら、とんでもないコトを言う陽子。
「せやけど……途中で、妖気が切れたせいか、急に酔いが覚めちゃって、けど、引っ込みつかへんで、そのま ま酔ったふりしてて……けど、お兄ちゃんに酔い覚めてるんがばれちゃったせいで、わけわからへんようにな っちゃったんや」
「それで、逃げた、と?」
「うん。逃げて、普段の私に代わっちゃったん」
 全部話してしまったせいか、陽子の表情は、恥ずかしさよりも、鬼陽子がどうして「逃げ出した」のか、という 戸惑いの色の方が色濃く表れているようだった。
 俺は、正直意外、というか、不思議な気持ちだった。

「私……な」
「ん?」
 しばらく黙っていた陽子が、ぽつり、と小声で話し出した。
「私、覚醒するんは、強くなることやと思うとった。せやけど……ちょっと、わからへんようになっちゃった」
 困ったような陽子の声。俺は、少し考えた後にこう返事をした。
「そうだな。けど、思うんだけど、陽子には、そういう事の経験がまだあまり無いから、ってだけなんじゃないか な。だから、そんなときにどうしていいのか判らなくなっちゃっただけだろう、きっと」
「そうなん……かな」
「それに、強くなるって言っても色々あるしね。むしろ覚醒するより、普段のままの方が強い部分だって陽子に はあるんじゃないかな」
 陽子は、しばらくじっと考えた後、こう言った。
「そう……かな、うん、そう、かも……知れへんね」
 少しだけ、陽子の表情が明るくなったような気がした。
「それに、だな。その……陽子に弱いところがあるんなら……俺が、その支えになってやるから。それじゃ、駄 目か?」
 俺も少しばかり恥ずかしかったが、それでもきちんと陽子の顔を正面からきちんと見据え、そう言ってあげ た。
 正直、顔から火が出そうなくらいに熱い。だけれど、こういう時は、正面から向かってやらないといけないと思 うからだ。
「うん……それで、ええよ」
 陽子の頬が、薔薇色に染まる。そして、満ち足りたような笑顔で、俺に、そう言ってくれた。

 俺たちは、そのまま何となく向かい合っていたが、やがて、何となくそわそわした気分になってきてしまった。
 そんな、妙に落ち着かない雰囲気の中、陽子が少し目を伏せて、こんなコトをぽつり、と口にしてきた。
「その……ね、さっき言うてた『経験』って、どないなことなん?」
「け、経験!?」
 思わず上げてしまった声は、少しばかり上擦ってしまっていた。
 陽子は、恥じらいながら少し目を細め、ちょっとだけ顔を伏せながら、こう言葉を継いだ。
「ちょっと……して、みたいかも、その、け、経験……」
 細めた目を少し泳がせながら、陽子はゆっくりと、自分の唇に指先を少し触れさせた。
 俺の視線は、そんな陽子の顔に釘付けにされていた。
「よ……陽子」
 陽子の揺れていた目が、やがて俺の視線と結び合う。俺たちは、そのままゆっくりと顔を近づけて……
「うう、全く酷い目に遭うたもんやで。参った参った」
 その時、そう言いながら、さっき窓枠から外に落っこちた飯綱が、よっこらしょ、とその窓枠をよじ登って顔を 出してきたのであった。
「……何固まっとんねん、お前ら」
 俺たちは、そのままその場で、速乾性セメントでも被ったかのように硬直していたのであった。

 …………どーして、俺たちはこう、いい雰囲気になると狙いすましたように邪魔が入りやがりますか。しくし く。

 それから、しばらく経ったある日の夜。
 俺は、また別の事件で、「狩り」に同行することとなった。
 鬼の血を覚醒させた陽子は、圧倒的な力をもって人に仇なす妖を追いつめ、その爪で敵を滅ぼした。
 そして、全てを終わらせた後、陽子は俺の前にまっすぐに立ち、少しだけ頬を染めてためらった後、言った。
「この前は、逃げたりしてごめんな。その、どうしても、覚醒してるとき……今の私のときに言いたかったんや」
 俺は、にこりと笑って頷き、いつものように、陽子の頭を撫でてやった。陽子は、赤くなって微笑み、俺の方を 見た。が、そのときにはもう、鬼陽子の紅い瞳ではなく、普段の陽子の茶色の瞳が俺の顔を映していたのだっ た。

 微笑んだ陽子は、どっちの陽子だったんだろう、と時々俺は考える。が、その度に結論はいつも同じだ。
 どっちの陽子も、俺の大事な陽子に変わりはない、って事に。

おしまい

2004年10月4日第一稿up
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